幽谷霧子の『主体』による「さん」付けと『連続性』仮説
皆さん、こんばんわ。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
この記事は、アイドルマスターシャイニーカラーズ(以下、シャニマス)で2019年に公開されたコミュの感想を書くアドベントカレンダー「シャニマスコミュ感想文2019 Advent Calendar 2019」に参加しています。
前日の記事はごまおさんの「幽谷霧子がかわいい話」になります
幽谷霧子はかわいい。かわいいのだ。
さて、連日になって申し訳ないのですが、本日も幽谷霧子のお話をしていこうと思います。
今回の記事ですが昨日行われました「アイマス学会in北九州」というでプレゼンオフにて私が行いました「幽谷霧子の『主体』と『連続性』について」という発表の内容をブログに起こしたものとなります。
アイマス学会in北九州の様子はこちら↓
twitter.com感謝祭の衝撃的発言で話題となった「幽谷霧子の『さん』付け問題」を背景に幽谷霧子の求めるものについて今年出たコミュを踏まえた上で見ていこうと思います
※注意
今回の主旨の関係上、コミュやカードの内容に踏み込んだものとなります。
そのためネタバレとなる内容も含みますため、問題ない方は以下をご覧ください。
目次
はじめに:幽谷霧子『さん』付け問題とは?
まず幽谷霧子『さん』付け問題とは何か?
幽谷霧子は動植物や無機物に「さん」をつけて擬人化してしゃべる特徴がある
しかし、この「さん」付けは常に行われるわけではない
いくつか例を挙げていこう。
・「さん」が付けられた事例
ゼラニウムさん
エビさん
いたいのさん
接着剤さん
妖怪さん
デカルトさん
赤ちゃんさん
・「さん」が付けられなかった事例
てんぷら
軍手
ほうき
新聞紙
この違いは何か?
対象物での違いでもなく、また状況によって呼び方もまちまちである。
このルールに関して、以前よりどのようなルールがあるのか、またルールがあるのかという議論はなされてはいたが、しかし、明確なルールがあるかどうかもわからない状態が続いていた
しかし、ある一言により事態は一変する
それは今年の10/27に行われたプロデューサー感謝祭にて起こった
この中で行われたこなれたクイズコーナーで「霧子がさんを付けなかったものはなにか?」というクイズが出題された。
その問題が出た中で高山Pが衝撃的な一言を放った
これは公式側から明確なルールが存在することを明言した瞬間である
この一言によって霧子学会における「『さん』付けのルール研究」は加熱化し各地で(主にTwitterで)様々な議論が交わされるようになった
これがいわゆる「幽谷霧子『さん』付け問題」である
1,「幽谷霧子『さん』付け問題」先行研究と「主体」
上記のように活発化したことによりTwitterなどでは様々なルールに対しての検証が行われた
以下はこちらで確認された先行研究の一部である
・かなり早い段階で説を提唱した方でツリー形式で様々なコミュを検証しています
@親愛なる霧子Pのみなさん
— あしろ (@Ashiro_YM) 2019年10月28日
・さん付の定義
霧子の中で「役割を持っているか否か」による説ないですか pic.twitter.com/J5vdEHUKhl
・フローチャート式にしてかなり詳細にルール付けの対応をとっている
これらの研究において共通するのは「霧子にとって『主体』を感じたもの」に関して『さん』が付けられているということである
ここで言う『主体』というものは以下のように定義する。
すなわち
・霧子にとって「能動的な主語になりうる」と認識したもの
・そのモノが何か「行動」を起こしていると認識させたもの
特に先行研究においてもこの例示がなされているのが【夕・音・鳴・鳴】幽谷霧子の「われたよ」コミュである
「われたよ」のコミュはプロデューサーがコップを割ってしまいそれを霧子とともに片付けるところからはじまる
ここで注目したいのは霧子は「軍手」や「ほうき」、「新聞紙」に対して「さん」を付けていない。またそれらの物品に対して「持ってきます」と表現する
しかし、われたコップに対してプロデューサーが寂しそうにした時に以下のようなやり取りが行われる
最大の注目点は「接着剤」が「接着剤さん」に変わっている点である。
つまり、彼女の中で「接着剤」の認識がこのセリフの中で変わっているのである
さらにコミュは以下のように続きます
「カップ」というところに注目すると、彼女の中で「割れたカップ」はその『役割の認識』を失なってしまったが、「フラワーポットさん」という新しい認識を得ていることが分かる。
つまり、「さん」付けというものが霧子の『認識』のアップデートとともに行われている示唆がこのコミュで行われている。
「さん」付け問題とはすなわち霧子の中の認識の問題であり、モノに主体を認識した時に霧子は「さん」を付けていると考えられるのである
2,幽谷霧子と「連続性」
「さん」付けの認識におけるルールはある程度判明してきたとして
しかし、ここで同時に疑問が生じてくる
それは
「なぜ幽谷霧子はなぜ『主体』を感じた時に対象に『さん』つけるのか?」
という問題である。
つまり、ルール本体ではなくその理由側に対する疑問だ。これに関しては、まだコミュ自体に明確な提示があるわけではない。
しかし、ここで霧子のコミュからその『なぜ』の部分に関して仮説を立ててみたい。
sSR【我・思・君・思】幽谷霧子は今年の7月に行われたイベント「夏のアイドル強化週間」で実装されたポイント報酬カードになる
このカードのテーマというのは、一言で言うと『認識』の物語だ
世界というものは確かに存在するかもしれないが『認識』によってその概念はいくらでも揺らぎだす
【我・思・君・思】幽谷霧子のコミュは2つある
「みんみん」のコミュでは恋鐘がセミのモノマネをすることで暑さを感じることがなくなるのでは?と提案してアンティーカがセミのモノマネしていくコミュになる
コミュとしてはアンティーカがかわいいなあというコミュではありますが、ここで咲耶が示唆的な内容を書いている
ここセミが世界をどのように知覚するかによって暑さがを抑えているのではないかという話をしている。
つまり、世界というのは知覚する『主体』によってどのようにも変化するということがここで議論されているわけである(摩美々にほ否定されいるが)
そして、その主題は「かなかな」へと引き継がれる
さて、このコミュを考えるにあたり、少し私の推し数学者であり推し哲学者のデカルトの話をさせてほしい。
デカルトはルネッサンス期に活躍したフラスン出身の哲学者であり数学者だ
主な功績としては数学者としてはグラフなどでおなじみの「デカルト座標系」を生み出したこと、そして、その功績として最も大きいとされるのは著書『方法序説』で書かれた「我思う故に我在り」(Cogito ergo sum)という概念である
『方法序説』というのは何の本かというとデカルトが行っていた科学的思考方法のやり方を説明したものである。
当時ヨーロッパでは「スコラ哲学」と呼ばれる神への信仰が大元にある思考方法が主流だった。これはいわば宗教の前提や慣習が優先されてそれをもとに真理を求めようとする学問だった
しかし、デカルトはそういった慣習や前提というものはまず疑うべきで、議論を行う上で一個一個確実に正しいとされるものを土台にしなければならないと考えて新しい方法を編み出した
それは以下の4つで構成されている
1、明証性の保証
自分が明証的に真理だと認めるもの(つまり疑えないもの)以外は真だと認めない
2、問題の分割
難問は一つ一つ分割して、一個一個簡単な問題にして明証性を検討していく
3、単純なものから複雑へ
簡単な問題を解決して積み重ねることで複雑な問題を解決していこう
4、列挙と再検証
最後に今まで出した真と判定したものを列挙して、再度検証しよう
これらは今につながるいわゆる『科学的な思考』の基本となっている。これによって現代の科学につながる様々な発見が行われたことからデカルトは「近代哲学の父」と呼ばれている
そして1の「明証性の保証」を行う際にデカルトは世界のあらゆるものを疑っていった。自分の見ている認識や感覚すらものこの世界が夢である可能性があり偽である可能性がある
そうして世界のすべてを疑った上で最後にこの問題について考えている「自分」という存在自体は疑いようもなく存在しているという結論に至ったのである。
これが「我思う、故に我在り」ということである
何故この話をしたかというとこの「かなかな」というコミュがこの「我思う、故に我在り」というものをテーマにしているからである
コミュは霧子が目を覚ますところから始まる
隣にはユニットメンバーの白瀬咲耶がおり、咲耶は社会科のテストに向けてデカルトの思想の勉強をしていた
前述のデカルトの命題を説明しつつ、しかし、咲耶は同時に「認識しているこの世界は本当に夢でないという保証はどこにあるのだろうか?」と霧子に問う
そして夢である可能性は捨てきれないと言いながら霧子はまた眠りにつきそうになる
しかしその直前に霧子はこのような言葉を残す
この霧子のセリフは非常に示唆に富んでいると考えている
すなわち「霧子自身が今が夢であったとしも霧子が願うのはその咲耶の存在そのものがい続けること」なのである
つまり、これが「その存在の連続性」こそが霧子にとっては重要なことである
そしてコミュは最後に以下のセリフで終わる
ここで「さん」である。この『さん』付けはどういう意味があるのか
ここで再度デカルトについての話をしよう。実はデカルトの『方法序説』は「我思う、故に我在り」だけで終わらない。デカルトはもともと修道院に入っており、本人自体は神の存在自体はあると考えていた
デカルトは上述の思考法によって「完全なる神」の存在証明を行っていた。どういう風にかというと、先ほどの思考で我というものに関しては保証できたが「悩んでいる我というものは悩んでいる時点で不完全である」また「悩んでいる我が疑うこの世界というものに関して、次のタイミングで夢になる可能性があるということを誰も保証できない」というものである
つまり、この連続性の保証が求められたときに、デカルト自身はそれを保証するものが「不完全な我」と対になる「完全なる神」であり、誠実なる神は世界を欺いて作らないために自己以外の連続性(=外界の存在証明)は保証されうる、と説いた
この説の真偽に関しては現代においてはおそらく懐疑が生まれる個所ではあるが、ここで重要なのはデカルト自身が神という存在をなにより大切にして、それによって連続性を保証していたということである。
コミュに戻ろう。霧子は最後にデカルトの存在に『主体』を認めて『さん』を付けそれに対して「おやすみ」と言葉をかけている。つまり、デカルトの存在を認めてその存在が眠りについて起きたとしてもあり続けることを、その連続性願ったのである
アイドルというのは翻訳すると「偶像」となる。偶像というのはすなわち「神の似姿」である。
つまり、このコミュは霧子自身がその誠実さによってデカルトの存在証明を行い、デカルトが連続してあり続けることを証明して疑似的な「神」の役割をしたと捉えられるのではないだろうか
そして、さらに重要なのは霧子自身が「存在や記憶の連続性」というものに重きを置いたコミュが他にもあるということだ
このコミュでは町の建物を勝手にどこかに移動してしまう妖怪の話をしており、その移動した認識自体をいじってしまうという話の中で、もしかしたら今の事務所も移動された後かもしれないという会話の後になされた会話である
ここで重要なのは「自分以外の周りの記憶を持っていたことに感謝している」ところである
こういった点から幽谷霧子が「存在や記憶の連続性」を重視しているところが見受けられる
3,幽谷霧子「連続性」仮説
では、なぜ幽谷霧子は「連続性」を重視するのか?
ここからは完全に仮説の域であるが、幽谷霧子は元々「大学病院の寮に住んでいた」という話がある
さらに病院によく行っており、そこで包帯を巻く技術などを学んだことが分かっている
ここで重要なのは「病院」という環境だ
病院という環境はそれ自体にどうしても『生と死』というものをはらんでしまう
つまり幽谷霧子の身の回りは常に『死』という誰かの『存在が突然消える』環境にありその存在が『忘却』される環境にあり続けたのではないか
そして幽谷霧子にとって最も忌避すべきものとなったのは『誰かの存在の消失』になったのではないか
そうすると、彼女の『さん』付けは存在の認識をし、その存在を記憶することで「存在をなくさないために」行われているのではないか
つまり
幽谷霧子は「存在の連続性」を残すために「さん」を付ける
これが「なぜ」の答えになるのではないだろうか
4,終わりに
さて、ここまでコミュを追ってきて幽谷霧子の『主体』と『連続性』についてみてきた。最後のに関しては完全に仮説ではあるが、個人的な予想では今後コミュで語られていくことになるのではないかと考えている
ところで、アイドルマスターシャイニーカラーズは限定pSSRでそのキャラクターの根幹となる物語を語ることが多い
そして、幽谷霧子の限定pSSRはまだないのである
ま だ な い の で あ る
……皆さんにおかれましては今後ともよきシャニマスライフがあらんことを
さて、遅くなってしまいましたが次のシャニマスアドベントカレンダーはチキン野郎さんの「有栖川夏葉さんへの信仰」とのことです
夏葉担当なので大変に楽しみです
それでは今回はこのへんで。