水嶋咲は越えられる ~たんあいがたり~
皆さんこんばんは。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
◆はじめに
この記事は
やきゅさん主催の「担当のここが好き!」を語る企画、「たんあいがたり-natsu-」の七日目の記事となります
昨日は「いぬぽん」さんの「唯という女の子について ~たんあいがたり~」でした
大槻唯って精神の在り方がいいですよね。
彼女の明るさの強さは天性のものであって、何物にも染まらず自分らしさを自然に歩んでいるのが良いですね。魂の形が強い。
◆魂の形
さて、魂の形というのは人それぞれで、どうありたいかという本人の意志の結果です。
しかしながら、この社会というものは個人の意志を時に「常識」や「当たり前」という言葉によって抑えてしまいます。それは「正しさ」でもあるのですが、ある意味では魂の否応ない変質となります。
魂の形というのは、そういった社会との衝突から何を貫くべきなのか。自分が曲げられないことを獲得して決定していく過程の結果とも言えます。
アイドルというものはこの魂の形を目指していく過程であり、その姿を見ることがファンである人々にとっての希望となる瞬間でもあります。
私のSideMの担当である水嶋咲は、魂の形を「カワイイ」ことと定めました。
そのアイデンティティはそうであることを目指す生き方でした。
しかしながら、その道は決して平坦なものではありませんでした。
水嶋咲自身は、まだ18才で大人と子どもの狭間の人間です。
大人ではないので、その願いを諦めることはありませんでした。
しかし、それと同時に子どもでもなく、その願いがもたらす世間や社会の目線というものも知っていました。
故に、水嶋咲は「水嶋咲」であることを世間から隠すように生きてきました。
学校では「普通の性別に沿った生き方」として男子の制服を着て過ごし、放課後だけカワイくなれる。
世間に認められるものではないことも自覚しながら、それでも自分である瞬間を求めていました。
「願い」というのは時に残酷で自分自身を傷つけ、また周囲の人間を傷つけてしまうこともあります。
それによって不可逆な変化をもたらしてしまうこともままあります。
しかし、その可能性を考えても、何かを失っても、その「願い」を求める覚悟をする瞬間があります。
天才であれば、あるいは子どもであれば、その覚悟をいともたやすく行うでしょう。大人であれば捨てるものを天秤にかけてそれでもと冷静に選択するでしょう。
水嶋咲は大人でも子どもでもなく、天才でもありませんでした。
水嶋咲は自分が受け入れられないかもしてないことを、社会から傷つけられてしまうかもしれないことも知っていました。
それと同時に、どちらかを捨てることも出来ずにいました.
でも、それこそが私が水嶋咲というアイドルを選んだ部分でもあります。
◆ボーダーを越える
アイドルが最も輝く時はどこなのか?
それは、自分一人では分不相応な願いを自覚的しながら、それでも迷って足掻いてもがきながら、等身大の自分で手を伸ばす覚悟をした時です。
そして、その迷いの前提が強ければ強いほど、アイドルは輝いていきます。
何故ならば迷い決断するということは、2つの異なる視点を感じて知ることであり、
2つの異なる立場の人々を知り、その人たちの思いを背負うことだからです。
故に、アイドルというのは徒人でありながらあらゆるボーダーの上に立ち境界線を飛び越えて新しい世界を見せてくれる人である、というのが私の考え方でした。
水嶋咲は性別でも、年齢でも、虚と実という意味でも境界線上の人です。そのことについてとても自覚的です。それ故に迷ったり苦しんだりもします。
でも、だからこそ、私は水嶋咲が世界を変えていく姿が見たいのです。
水嶋咲という境界線の祈りと覚悟が、世界を切り拓いて、飛び越えていく姿はきっと新しい景色を見せてくれるからと感じたです。
私はそれが見たかったのです。
だからこそ私は水嶋咲を担当しました
◆5周年を迎えて
SideMは今年で5周年になります。
水嶋咲は独り求めていた「あたしらしさ」は、
卯月巻緒と出会い、CafeParadeという居場所を見つけ、
そしてアイドルとなることで多くの人々と出会いながら認められていきながら、
作中の多くの場所で世界の見方を変えてきました。
そして、また現実においても私は水嶋咲を通して人と出会い 、
多くの新しい景色を見ることが出来ました。
願わくば、これからも水嶋咲と迷いながら一緒に境界線の向こう側を見に行きたいと思います。
◆次回予告
というわけで、今回はここまで。
次回はa54さんで「双葉杏」となります。
双葉杏の人生の立ち方は最高だと思います。
ではでは~。