2020アイマス楽曲10選
どうも
水嶋咲のトレンチことkatariyaです
さて、年末も年末大晦日ではありますが、みんな挙げているし便乗に便乗を重ねて今年のアイマス楽曲10選を行っていこうと思います。リストは以下のところから。
アイドルマスター楽曲メモ https://music765plus.com/
■ Claw My Heart
これ今年かあ……そうかあ……となりましたが、何よりかにより詞と歌と歌唱すべてを含めてバランスが最高にいいなあというのと早坂美玲自身のカッコよさを全面に出しつつ、朝井さんの強さとかわいさのバランスが最高にいい。特にドラムが最高。いいソロもらったなあと思える一曲でした
■あらかねの器
鬼滅の刃がばちくそブレイクして、鬼滅の楽曲提供で何だか時の人になっちゃってる椎名豪さんですが、もうアイマス椎名曲の中で最高潮に遊んでるというか、藤原肇の持つ器モチーフから大河ロマンに持っていく手法で楽曲作れるのまあお前しかおらへんわなあとしみじみ思うのですよね。特に途中で入るレコードのノイズ音とかの芸を踏まえつつ受け継がれる意志とかを出していく手腕はお見事の一言よ
まあ、この楽曲つけても歌いこなせる鈴木みのりがお化けオブお化けなんですけどね。椎名豪って上記の通り、「楽曲時間軸の中での分厚い歴史の圧縮とスケール感の出し方」がとてもうまい人なんですけど、それを支える為には技術的な部分も含めた腹から支えるスケールと気合が歌唱側に必要なんですけど、まあ十二分に答えてましたね。流石すぎるなあって思いました
■DEpArture from THe life
歌姫―!!!!いや歌姫曲ー!!!って感じの強いオブ強い楽曲。こういうのちょうだいもっとちょうだいってなりましたね。アケマス時代からAMCとか使ってた人間で、担当千早の楽曲はもちろん「隣に…」をずっと聞いていた身としても納得の楽曲でした。表題曲のFermata in Rapsodiaはもちろんのことこの一枚で三浦あずさ・如月千早・四条貴音という歌唱力おばけの一端がいーっぱい出てきてくれていて満足オブ満足です
■ 絶対的Performer
曲が性癖。全体的な曲展開が昔懐かしいハロプロ感も感じさせつつ、サビの盛り上がりとダンス、コールがすべてにおいて90年代後半から00年代アイドル感が満載であの時代を生きた人間特攻になっている楽曲で非常に良い。あと楽曲メンバーがダンスメンツで選んでいるんだけど、それでいて声質も少し低音が聞いているのが旨味になっていておいしくなっているのがベネ
■ミュージアムジカ
SideMからはアニバ曲からこの一曲。この楽曲は本当に歌詞が本当に良くて、特にサビの「太陽」と「名を呼ぶ人」を結ぶは発想は天才の一言。また、カフェパレ、W、もふもふえんというかわいい系ユニットが集まって、かわいくはちゃめちゃに楽しくそれでいて最高の応援歌に仕上がっているし、あらゆる意味でポジティブしかない楽曲に仕上がっているのが本当に最高なんですよ。全人類ミュージアムジカを聞いてパッと晴れてほしい
■Delicious Delivery
なんでしょうねえ……今年ってやっぱりどうしても暗い気持ちになることが多くて、特にアイマスではライブっていうものがなくなってしまって、会えるっていう当たり前だったことがなかなかできなくなってきたんですよね。致し方ないって言っていても、やっぱり悔しいしつらいって思ってたんですよ。
でも、この楽曲って今だからこそいつもの場所じゃダメってわけじゃなくて、アイドルの方からおいしさをデリバリーしてくれるって楽曲になっていて、それがすごい身に染みてしまって聞いた時に涙が止まらなくなってしまった楽曲です。
松井神ありがとう。
■純白トロイメライ
青春時代にローゼンメイデンっていう激やばコンテンツがあったんですけど、そこで宝野アリカに出会ってALI PROJECTを聞いていた人間に対して、とても強い特攻をもっていたので「あ~好きです好きです」ってなって五体投地しましたね。
いやこの楽曲聞いたらアンティーカが白いベイビードールみたいな服着て真っ赤な薔薇が散っているでかいベットの上で寝転がってそれぞれの顔が流れて最後引きになる異能力バトル物エンディングシーンが思い浮かぶでしょ!??????00年代とかに会ったじゃん!!!みんな見てたじゃん!!!!!(ハーブ)
自分の性癖が出されたらオタクは負けるしかないんだなあって思った一曲です
■学祭革命夜明け前
放クラ楽曲において最もテーマ的に重要だなあって思うのは「青春の永遠性」っていうテーマだと思っていて、作詞家の古屋真さんはそのあたりビーチブレイバーとかでもめちゃくちゃうまく書き出してくれていたんですけど、今回特に思ったのはじゃんけんのところ。ずっとあいこなら終わらないっていう楽しさの永遠性を書き出したのは見事の一言。楽曲全体も少し怪しげででもめちゃくちゃ楽しい非日常である「学祭前の夜」の空気感が出まくっていて、それがどこかで終わらないで欲しいというノスタルジーも感じさせるパーフェクトの一言に尽きる楽曲でした
■ Dye the sky.
2周年でこの全体曲書くのはコンテンツのペースとして狂ってると思うんですけど、それでもそれがシャニマスなんだろうなあという楽曲。 色褪せた過去を超えていけっていう歌詞はアイドル物において一つの命題になっていくんですけど、それをこのタイミングで、過去がまだ詰み切ってない状態でやるというのがすごい。何よりこれがノクチル登場時に出された楽曲であることもすごいですよね。あれだけ過去が重要視されているユニットに対して、この楽曲をしょっぱなに歌わせる意味みたいなものを感じざるを得ないし、これが文脈の上でのコンテンツの育て方なんだろうなあと思います
■なんどでも笑おう
まあこれは入れておかなきゃいけないかなあというのと、やはり15周年PVを見た時に今までの自分が楽しんで遊んできたコンテンツが、こうも長く続くことのうれしさとかありがたさがあったのでこちらを選びました。
アイマスというコンテンツを遊び続けているとサービス自体がなくなるんじゃないかってことは何度もあって、それでも今この瞬間に続いていること、それからつながった繋がりもとてもありがたい出会いが多かったことを素直に感謝出来るんですよね。
今年はつらかったことも多かったし、何より大変なことも多かったけど来年は笑えて会える年になるといいなと言う思いも込めて。
というわけで本年もたくさんの方に当ブログの記事をお読み頂きました。
特にシャニマスの記事とかいっぱい見てくださったみたいでありがたい限りです。
来年はもうちょい記事上げられるように頑張りたいなあ……
ということで今回はここまで。
皆さま、よいお年を~!!!
ブルーベリータルトを選んだあなたへ~シャニマス「【ドゥワッチャラブ!】桑山千雪」感想
幽谷霧子の『主体』による「さん」付けと『連続性』仮説
皆さん、こんばんわ。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
この記事は、アイドルマスターシャイニーカラーズ(以下、シャニマス)で2019年に公開されたコミュの感想を書くアドベントカレンダー「シャニマスコミュ感想文2019 Advent Calendar 2019」に参加しています。
前日の記事はごまおさんの「幽谷霧子がかわいい話」になります
幽谷霧子はかわいい。かわいいのだ。
さて、連日になって申し訳ないのですが、本日も幽谷霧子のお話をしていこうと思います。
今回の記事ですが昨日行われました「アイマス学会in北九州」というでプレゼンオフにて私が行いました「幽谷霧子の『主体』と『連続性』について」という発表の内容をブログに起こしたものとなります。
アイマス学会in北九州の様子はこちら↓
twitter.com感謝祭の衝撃的発言で話題となった「幽谷霧子の『さん』付け問題」を背景に幽谷霧子の求めるものについて今年出たコミュを踏まえた上で見ていこうと思います
※注意
今回の主旨の関係上、コミュやカードの内容に踏み込んだものとなります。
そのためネタバレとなる内容も含みますため、問題ない方は以下をご覧ください。
目次
はじめに:幽谷霧子『さん』付け問題とは?
まず幽谷霧子『さん』付け問題とは何か?
幽谷霧子は動植物や無機物に「さん」をつけて擬人化してしゃべる特徴がある
しかし、この「さん」付けは常に行われるわけではない
いくつか例を挙げていこう。
・「さん」が付けられた事例
ゼラニウムさん
エビさん
いたいのさん
接着剤さん
妖怪さん
デカルトさん
赤ちゃんさん
・「さん」が付けられなかった事例
てんぷら
軍手
ほうき
新聞紙
この違いは何か?
対象物での違いでもなく、また状況によって呼び方もまちまちである。
このルールに関して、以前よりどのようなルールがあるのか、またルールがあるのかという議論はなされてはいたが、しかし、明確なルールがあるかどうかもわからない状態が続いていた
しかし、ある一言により事態は一変する
それは今年の10/27に行われたプロデューサー感謝祭にて起こった
この中で行われたこなれたクイズコーナーで「霧子がさんを付けなかったものはなにか?」というクイズが出題された。
その問題が出た中で高山Pが衝撃的な一言を放った
これは公式側から明確なルールが存在することを明言した瞬間である
この一言によって霧子学会における「『さん』付けのルール研究」は加熱化し各地で(主にTwitterで)様々な議論が交わされるようになった
これがいわゆる「幽谷霧子『さん』付け問題」である
1,「幽谷霧子『さん』付け問題」先行研究と「主体」
上記のように活発化したことによりTwitterなどでは様々なルールに対しての検証が行われた
以下はこちらで確認された先行研究の一部である
・かなり早い段階で説を提唱した方でツリー形式で様々なコミュを検証しています
@親愛なる霧子Pのみなさん
— あしろ (@Ashiro_YM) 2019年10月28日
・さん付の定義
霧子の中で「役割を持っているか否か」による説ないですか pic.twitter.com/J5vdEHUKhl
・フローチャート式にしてかなり詳細にルール付けの対応をとっている
これらの研究において共通するのは「霧子にとって『主体』を感じたもの」に関して『さん』が付けられているということである
ここで言う『主体』というものは以下のように定義する。
すなわち
・霧子にとって「能動的な主語になりうる」と認識したもの
・そのモノが何か「行動」を起こしていると認識させたもの
特に先行研究においてもこの例示がなされているのが【夕・音・鳴・鳴】幽谷霧子の「われたよ」コミュである
「われたよ」のコミュはプロデューサーがコップを割ってしまいそれを霧子とともに片付けるところからはじまる
ここで注目したいのは霧子は「軍手」や「ほうき」、「新聞紙」に対して「さん」を付けていない。またそれらの物品に対して「持ってきます」と表現する
しかし、われたコップに対してプロデューサーが寂しそうにした時に以下のようなやり取りが行われる
最大の注目点は「接着剤」が「接着剤さん」に変わっている点である。
つまり、彼女の中で「接着剤」の認識がこのセリフの中で変わっているのである
さらにコミュは以下のように続きます
「カップ」というところに注目すると、彼女の中で「割れたカップ」はその『役割の認識』を失なってしまったが、「フラワーポットさん」という新しい認識を得ていることが分かる。
つまり、「さん」付けというものが霧子の『認識』のアップデートとともに行われている示唆がこのコミュで行われている。
「さん」付け問題とはすなわち霧子の中の認識の問題であり、モノに主体を認識した時に霧子は「さん」を付けていると考えられるのである
2,幽谷霧子と「連続性」
「さん」付けの認識におけるルールはある程度判明してきたとして
しかし、ここで同時に疑問が生じてくる
それは
「なぜ幽谷霧子はなぜ『主体』を感じた時に対象に『さん』つけるのか?」
という問題である。
つまり、ルール本体ではなくその理由側に対する疑問だ。これに関しては、まだコミュ自体に明確な提示があるわけではない。
しかし、ここで霧子のコミュからその『なぜ』の部分に関して仮説を立ててみたい。
sSR【我・思・君・思】幽谷霧子は今年の7月に行われたイベント「夏のアイドル強化週間」で実装されたポイント報酬カードになる
このカードのテーマというのは、一言で言うと『認識』の物語だ
世界というものは確かに存在するかもしれないが『認識』によってその概念はいくらでも揺らぎだす
【我・思・君・思】幽谷霧子のコミュは2つある
「みんみん」のコミュでは恋鐘がセミのモノマネをすることで暑さを感じることがなくなるのでは?と提案してアンティーカがセミのモノマネしていくコミュになる
コミュとしてはアンティーカがかわいいなあというコミュではありますが、ここで咲耶が示唆的な内容を書いている
ここセミが世界をどのように知覚するかによって暑さがを抑えているのではないかという話をしている。
つまり、世界というのは知覚する『主体』によってどのようにも変化するということがここで議論されているわけである(摩美々にほ否定されいるが)
そして、その主題は「かなかな」へと引き継がれる
さて、このコミュを考えるにあたり、少し私の推し数学者であり推し哲学者のデカルトの話をさせてほしい。
デカルトはルネッサンス期に活躍したフラスン出身の哲学者であり数学者だ
主な功績としては数学者としてはグラフなどでおなじみの「デカルト座標系」を生み出したこと、そして、その功績として最も大きいとされるのは著書『方法序説』で書かれた「我思う故に我在り」(Cogito ergo sum)という概念である
『方法序説』というのは何の本かというとデカルトが行っていた科学的思考方法のやり方を説明したものである。
当時ヨーロッパでは「スコラ哲学」と呼ばれる神への信仰が大元にある思考方法が主流だった。これはいわば宗教の前提や慣習が優先されてそれをもとに真理を求めようとする学問だった
しかし、デカルトはそういった慣習や前提というものはまず疑うべきで、議論を行う上で一個一個確実に正しいとされるものを土台にしなければならないと考えて新しい方法を編み出した
それは以下の4つで構成されている
1、明証性の保証
自分が明証的に真理だと認めるもの(つまり疑えないもの)以外は真だと認めない
2、問題の分割
難問は一つ一つ分割して、一個一個簡単な問題にして明証性を検討していく
3、単純なものから複雑へ
簡単な問題を解決して積み重ねることで複雑な問題を解決していこう
4、列挙と再検証
最後に今まで出した真と判定したものを列挙して、再度検証しよう
これらは今につながるいわゆる『科学的な思考』の基本となっている。これによって現代の科学につながる様々な発見が行われたことからデカルトは「近代哲学の父」と呼ばれている
そして1の「明証性の保証」を行う際にデカルトは世界のあらゆるものを疑っていった。自分の見ている認識や感覚すらものこの世界が夢である可能性があり偽である可能性がある
そうして世界のすべてを疑った上で最後にこの問題について考えている「自分」という存在自体は疑いようもなく存在しているという結論に至ったのである。
これが「我思う、故に我在り」ということである
何故この話をしたかというとこの「かなかな」というコミュがこの「我思う、故に我在り」というものをテーマにしているからである
コミュは霧子が目を覚ますところから始まる
隣にはユニットメンバーの白瀬咲耶がおり、咲耶は社会科のテストに向けてデカルトの思想の勉強をしていた
前述のデカルトの命題を説明しつつ、しかし、咲耶は同時に「認識しているこの世界は本当に夢でないという保証はどこにあるのだろうか?」と霧子に問う
そして夢である可能性は捨てきれないと言いながら霧子はまた眠りにつきそうになる
しかしその直前に霧子はこのような言葉を残す
この霧子のセリフは非常に示唆に富んでいると考えている
すなわち「霧子自身が今が夢であったとしも霧子が願うのはその咲耶の存在そのものがい続けること」なのである
つまり、これが「その存在の連続性」こそが霧子にとっては重要なことである
そしてコミュは最後に以下のセリフで終わる
ここで「さん」である。この『さん』付けはどういう意味があるのか
ここで再度デカルトについての話をしよう。実はデカルトの『方法序説』は「我思う、故に我在り」だけで終わらない。デカルトはもともと修道院に入っており、本人自体は神の存在自体はあると考えていた
デカルトは上述の思考法によって「完全なる神」の存在証明を行っていた。どういう風にかというと、先ほどの思考で我というものに関しては保証できたが「悩んでいる我というものは悩んでいる時点で不完全である」また「悩んでいる我が疑うこの世界というものに関して、次のタイミングで夢になる可能性があるということを誰も保証できない」というものである
つまり、この連続性の保証が求められたときに、デカルト自身はそれを保証するものが「不完全な我」と対になる「完全なる神」であり、誠実なる神は世界を欺いて作らないために自己以外の連続性(=外界の存在証明)は保証されうる、と説いた
この説の真偽に関しては現代においてはおそらく懐疑が生まれる個所ではあるが、ここで重要なのはデカルト自身が神という存在をなにより大切にして、それによって連続性を保証していたということである。
コミュに戻ろう。霧子は最後にデカルトの存在に『主体』を認めて『さん』を付けそれに対して「おやすみ」と言葉をかけている。つまり、デカルトの存在を認めてその存在が眠りについて起きたとしてもあり続けることを、その連続性願ったのである
アイドルというのは翻訳すると「偶像」となる。偶像というのはすなわち「神の似姿」である。
つまり、このコミュは霧子自身がその誠実さによってデカルトの存在証明を行い、デカルトが連続してあり続けることを証明して疑似的な「神」の役割をしたと捉えられるのではないだろうか
そして、さらに重要なのは霧子自身が「存在や記憶の連続性」というものに重きを置いたコミュが他にもあるということだ
このコミュでは町の建物を勝手にどこかに移動してしまう妖怪の話をしており、その移動した認識自体をいじってしまうという話の中で、もしかしたら今の事務所も移動された後かもしれないという会話の後になされた会話である
ここで重要なのは「自分以外の周りの記憶を持っていたことに感謝している」ところである
こういった点から幽谷霧子が「存在や記憶の連続性」を重視しているところが見受けられる
3,幽谷霧子「連続性」仮説
では、なぜ幽谷霧子は「連続性」を重視するのか?
ここからは完全に仮説の域であるが、幽谷霧子は元々「大学病院の寮に住んでいた」という話がある
さらに病院によく行っており、そこで包帯を巻く技術などを学んだことが分かっている
ここで重要なのは「病院」という環境だ
病院という環境はそれ自体にどうしても『生と死』というものをはらんでしまう
つまり幽谷霧子の身の回りは常に『死』という誰かの『存在が突然消える』環境にありその存在が『忘却』される環境にあり続けたのではないか
そして幽谷霧子にとって最も忌避すべきものとなったのは『誰かの存在の消失』になったのではないか
そうすると、彼女の『さん』付けは存在の認識をし、その存在を記憶することで「存在をなくさないために」行われているのではないか
つまり
幽谷霧子は「存在の連続性」を残すために「さん」を付ける
これが「なぜ」の答えになるのではないだろうか
4,終わりに
さて、ここまでコミュを追ってきて幽谷霧子の『主体』と『連続性』についてみてきた。最後のに関しては完全に仮説ではあるが、個人的な予想では今後コミュで語られていくことになるのではないかと考えている
ところで、アイドルマスターシャイニーカラーズは限定pSSRでそのキャラクターの根幹となる物語を語ることが多い
そして、幽谷霧子の限定pSSRはまだないのである
ま だ な い の で あ る
……皆さんにおかれましては今後ともよきシャニマスライフがあらんことを
さて、遅くなってしまいましたが次のシャニマスアドベントカレンダーはチキン野郎さんの「有栖川夏葉さんへの信仰」とのことです
夏葉担当なので大変に楽しみです
それでは今回はこのへんで。
2019年アイドルマスターの文脈で好きだったものの話
皆さん、こんばんわ。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
この記事は、THE IDOLM@STERファン非公式SNSである、
im@stodon.net im@stodon(蒼) twista(シャニ鯖)
の住人が、「2019年の振り返り」と「アイマス語り・アイマスネタ」でブログを12月1日から 25日まで 一人一記事ずつリレーしていくアドベントカレンダーです。
昨日はフェンリルさんの『2019年プロデュース活動の振り返り』でした
fenrirlaboratory.hatenablog.com
ミリオン6th仙台は神でしたね……Cleasky……
さて、そんなこんなで今回のブログのテーマは
『今これが熱い!2019アイマスの中でぶっこまれた文脈』です!
◆はじめに:『文脈って何?』
そもそも文脈ってなんだ?というお話なんですが、
この世の中には物語の類型というものが存在します。例えば『勧善懲悪』なんていうものがありますね。ヒーローが悪を倒す!って構図の物語です。
またキャラクターの造形、それぞれの配置や構成においても、ある種のパターンみたいなものが存在します。単純なものだとヒーローと悪役とか、もう少し入り組んだところで言うと、「生き別れの兄妹」とか「幼馴染と転校生の対立」なんてのもあります
オタクコンテンツの中ではそういった物語の類型が結構まとめられていて、人によって死んでしまうほど好きすぎる物語類型やキャラクターの造形、関係性が存在します。
『エルフの村を焼きたい』とか『アイドルの友人で前まで普通に話しかけられていたのに急に遠い存在に感じるようになってしまった友人』などもそうです。
ここでいう「文脈」とは、これらの物語類型やキャラ造形、関係性の中で
『巨大な感情を誘発して人の情緒を乱すもの』
と定義しています
今回はそんな「文脈」の中でアイドルマスター関連で2019年来ていた文脈で好きだったものがあります。それが『天才と凡人』の文脈です
※なお、上記の内容故に多少コミュの中身等に触れてネタバレとなる部分も存在しますのであらかじめ御了承ください
◆天才と凡人
皆さん「天才」と「凡人」って好きですか?
自分は西尾維新という「天才を書くのが大好き」な人のものを読んでた人間なので大好きなのですが、特に好きなのは「天才」と「凡人」の対比としての関係性です。
物語における「天才」と「凡人」というのはいわば断絶とそれを乗り越えるところにうまみが詰まっていて、「天才」の隣に「凡人」が歩けるようになるかというのが重要なテーマだったりします。
今年のアイマスはこの天才と凡人のお話がぽんぽこ投げ込まれていて非常においしい年でもありました。
まず、今年出来たアイマス内ユニットの中で鮮烈なデビューを飾ったのはアイドルマスターシャイニーカラーズの「ストレイライト」でしょう。
ストレイライトは芹沢あさひ、黛冬優子、和泉愛依の三人で構成されているユニットで今年からシャイニーカラーズの方に追加されました。
このユニット内での「天才」というのは芹沢あさひになります。
そして「凡人」は黛冬優子になります。
めちゃくちゃ主語をでかくすると、大体のオタクがなんらかのジャンルで天才や恵まれた人間に対しての凡人の悲哀や羨望というもの見たことがあると思います。
アイマスでも過去にアニマスとかでの天海春香と星井美希の関係性とかでそれを描いたりしているのですが(あれは正確には「天才と凡人の立ち位置の逆転」も描いてたりしますが)ストレイライトはそれを150キロのストレートで真ん中をぶち抜いてきたユニットです。
特にその関係性が出ているのがストレイライト初のイベントとなった「Straylight.run()」と「ストレイライト感謝祭」コミュとなります。
特に「Straylight.run()」は黛冬優子が保つ仮面をユニット内ではぐためのコミュであり、天才というものに立ち向かう時、凡人が出来ることはただまっすぐに泥臭くてもカッコ悪くても立ち向かい自分を貫くことであることを示しています。
黛冬優子にとってその仮面は「見せたい自分」であり「夢」でもあります。アイマスにおいて「夢」というのは何よりも尊重されるものなんですが、「隣にいる巨大な才能」でそれを一度「否定」したこと、その上で、「だとしてもこれが私の目指す道」なんだと天才に認めさせる流れは本当に見事でした。
黛冬優子の夢を芹沢あさひは無自覚に破壊していくでしょうが、それでも黛冬優子がそれに対して「凡人」として抗い続けるさまは注目していきたいところですね。
(このユニット、じゃあ「和泉愛依」の立ち位置ってどこなんだろう?って思うんですけど、そのあたり多分SideMの2016年のイベントの「出陣!315戦国映画村」で描かれた虎牙道の円城寺道流の立ち位置にヒントがあるのでは?というのがあるので気になる人はそちらもチェックしてみてください!!モバゲーの方のSideMイベントアルバムで確認できます)
シンデレラでも「天才」と「凡人」の文脈で大きな流れがありました
先日行われた「THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 7thLIVE TOUR Special 3chord♪」ナゴヤドーム公演でも披露されました一ノ瀬志希と二宮飛鳥の
Dimension-3の「バベル」のコミュです。
このコミュは「天才」である一ノ瀬志希と「凡人」である二宮飛鳥がユニットを組む意味に関してのコミュであります。
「天才」というものは常識の目線で見た時ひどく冷酷で行動理由のわからないものでもあります。それは興味があるものとないものに関しての対比という点においてひどく境界線があるためです
であるが故に、最初凡人である二宮飛鳥に対して一ノ瀬志希は「対等になれないのであれば、興味が持てる対象にならなければユニットを組まない」と宣言するわけです
二宮飛鳥というアイドルは「中二病」であるが故に、天才と呼ばれる人種にどこまでも憧れを抱いています。しかし同時に自分がどうしようもなく「凡人」であることに自覚的です。
だがしかし、彼女が一点においてアイドルたり得るのはその「あきらめない心」になるわけです。「お前に挑み続けてやる」と宣言するわけです
(この辺りの自覚とその反骨芯の方向性、蘭子と飛鳥、ウサミンとしゅがはの対比でみるとシンデレラの時間経過がわかって面白いです)
このコミュに限らず、「天才と凡人」重要なのは「凡人があきらめずに立ち向かい続けること」なんですけど、それはなんでかというと「天才の孤独や退屈を晴らす」側面もあるからです
天才が生きる理由というのは「自分がわからないもの・謎を追い求めている」というのが基本的な造形のひとつなんですけど、それは逆説的に「興味や謎がなくなれば生きている理由がなくなる」ということなんです。また、天才というのは「勝てない」「理解できない」と「諦められる」ことにより周りから人がいなくなっていきます。
故に「凡人」である側が重要なのは、「理解できなくても、勝てないかもしれないとわかっていても、何度でも挑み続ける」ことがその天才の無聊と理解されない絶望をいやすことにつながるんですよね。
それはアイデンティティの否定を常に受け続ける行為でもあるので、苦痛を伴うのですがそれをやり続けられるのが「アイドル」として「天才」の隣に立つ素養なのかもしれません。
ちなみに余談ですがバベルのコミュを見る時に以下の順番でコミュを見ると結構おすすめです
・速水奏ソロコミュ
・「つぼみ」イベントコミュ
・一ノ瀬志希ソロコミュ
・「バベル」コミュ
さらにシンデレラは「天才と凡人」をコミカライズでもやろうとしています。
先日声優も発表されました的場梨沙のお当番回であります「アイドルマスターシンデレラガールズU149」の先読み分となります。
先読みなんで詳しいことは言えないのですが、完全にこの文脈のせてくる気満々なのでぜひ皆さん見てください
◆終わりに
いやー、でもこの「天才」と「凡人」って、昔のアイマスのゲームシステムだとなかなか公式側で描きづらい箇所だったんですよね。
何故かというと「天才」と「凡人」という2人必要で、かつ、対等な立場にいる必要があるため、「ユニット」というものがなければ描きようがないテーマだったんです。
15周年を迎えたこの時期に「ユニット」というものがある程度なじんできて、それを背景に描ける素地が出来たのは非常に良いことだなあと思います。
これ以外にも今年のアイドルマスターは新規開拓し始めた文脈が多く存在しています。
具体的にいうと「アイドルの家族」「友人」「モブ概念」などです
アイドルマスターも今年で15周年。
次の5年に向けての変化がかなりあるように感じられた一年でした。
さて、明日はさみどりさんで「北川真尋さんのお話」だそうです。
北川真尋は天才と凡人どっち側なんでしょうかね。
それでは皆さんもよき文脈ライフをお過ごしください。
ではでは~。
杜野凛世の水色感情とは何なのか?
皆さん、こんばんわ。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
さてさて、前のブログから大分間が空いてしまいましたが、
本日のテーマはシャニマスで出ました【水色感情】杜野凛世のコミュのお話です。
こちらのカードのコミュ内容があまりにも巨大な感情であり、それでいてかなり難解な内容となっていますのでそれの自分なりの考察と感想を書いていきたいと思います。
※注意
今回の主旨の関係上、コミュやカードの内容に踏み込んだものとなります。
そのためネタバレとなる内容もかなり含みますため、その点に注意して問題ない方は以下をご覧ください。
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◆はじめに:【水色感情】のコンセプトは「レコード音楽」と「恋」
おそらくこの記事にたどり着いた方に関していえば
シャニマス(アイドルマスターシャイニーカラーズ)をすでにプレイされている方が多いかと思いますが、
シャニマスの特徴としてプロデュースカードのSSR(以下:pSSR)のコミュに関していえば、ある種のテーマ性をもった5本のイベントで構成されています。
また、このコミュにはそれぞれタイトルが振られており、そのコンセプトに即したタイトルが付けられています
今回の【水色感情】のコミュタイトルは以下の通りとなっています。
今回で言えばTrueEndを含まない4つに関して言えば、それぞれAとBに分かれており、1~3までが(R.Morino)、4つ目のコミュに(Inst)と楽曲と歌唱者の名前のように付けられていること、またイラストに関しても蓄音機が主題にあることから、A面とB面に分かれた「レコード」としてこのカードのコミュイベントが割り振られていると考えられます
さらにそもそも今回のカードのタイトルである「水色感情」とは何なのか?
その答えは今回のカードの思い出アピールLv5の名前に出ています。
プロデュースカードのもう一つの特徴として、「思い出Lv.5のスキル名」はそれまでの+を付ける表記からそのカードの本質的なものを表すための名前となっています
シャニマスの今までのカードでもこちらは効果的な使われ方をしており、今回の【水色感情】でも効果的な変化をしています
ここでのbleuというのはフランス語で「水色(青)」という意味で、今回の【水色感情】というカード名と掛かっています。
しかし、これが思い出Lv.5になると[l'amour est]bleuと変化します。
こちらは意味としては「恋はみずいろ」という意味となります。
つまり【水色感情】というのは「恋」ということが読み取れるようになっています
これは実は有名な楽曲のタイトルで1967年に発表されたヴィッキーレアンドロスという歌手の全編フランス語の曲であり、ヨーロッパ中で大ヒットして何度もカバーをされ、日本でも森山良子など多くの歌手がカバーを歌っている楽曲となります。
(下記は楽曲のSpotifyへのリンクとなります)
さらに言えば、レコード全盛期に発売された楽曲であり、いわゆる「レコード世代の楽曲」でもあります。
そこで再度今回のコミュタイトルに注目すると、
「『レコード時代の楽曲』のタイトルやジャンルが使われているのではないか?」
という可能性が出てきます。
さらに言えば
「その楽曲の内容が今回のコミュの内容に密接にかかわっているのではないか?」
という仮説が出てくるわけです
そういった前提と仮定を踏まえた上で今回の各コミュを見ていきましょう
◆A1.君とabc(R.Morino)
ABCと言われると、おそらく世界で一番有名な楽曲タイトルとして出てくるのは1970年にThe Jackson5に歌われた『ABC』になるかと思います。
この楽曲の歌詞は一言でいえば「愛と恋の讃歌」です。
『学校では女の子との恋を学ぶために来たんだ。「君」が恋に落ちるのは数字を数えるように簡単で、愛することはABCを言うみたいに簡単で単純なことなんだ』
と若かりしキングオブポップのマイケルジャクソンとその兄弟たちが歌いあげる不朽の名曲です。
このコミュでは凛世は夏休みの宿題である英語を勉強しながらプロデューサー(以下:P)との会話を思い返していきます
選択肢は3つ。こちらの内容が非常に示唆的です
「―――夏休み、をもらっちゃうんだ」というコミュでは、オフをもらった凛世と同じタイミングでPが夏休みをもらい、その時何をやっているかの予定を聞いて、凛世は
私は彼が『今』何をやっているかが知っている、と喜ぶという内容です。
「宿題、終わったか」ではPからオフを伝えられた凛世がすこし渋るのを見て、レッスンしたいのだとPが勘違いしたのを思い返して
彼はわたしのことを『まだ』知らないわ、と少し残念そうに振り返ります
そして「―――あ、ひぐらしだ」という選択肢では、子ども時代を懐かしむPが「同じくらいの年齢だったらどうなっていただろうな」という問いかけを発して、凛世が「プロデューサー様はどうだったらよいですか?」と聞き、「今みたいだったらいいよな」と答えます。それを思い返しての凛世の言葉がこちら。
私はこの先にに何が起こるかを知らない、未来がどうなるか誰にもわからない。と締めるわけです。
ここで全ての選択肢を見ると、この選択肢内でのそれぞれの回想が一連の流れでなされている会話だとわかるのですが、その時系列と凛世自身が思い出す順番が逆になっています。
つまり「良かったことから思い返して未来への不安を思い出して感じる」という流れに構成されており、これを全部見た時に凛世という一人の少女が抱える高揚感と不安の揺れ動きが感じられるようになっているのです。
さらに、共通に使われる「know」という言葉から、「私が知っている彼」と「彼が知っている私」との間の差が「未来への不安」を呼び起こさせるという構成になっており、後述するこのカード全編における
「『私』が知っていることと『彼』が知らないことの差」
という裏のテーマが見えてくるわけです。
◆A2.恋は何色(R.Morino)
今回の表題曲となります。前述した「恋はみずいろ」はその題名の通り恋に関しての楽曲となります。
このコミュではその歌詞が非常に重要な立ち位置となってきます
(こちらは歌詞の解説を書いたサイトになります)
furansu-go.com
さて、このコミュでは非常に特徴的なセリフが出てきます
一見するとなんのことかわからないですが、こちらはこのコミュ内で凛世とPが聞いているレコードの歌詞となります。
そしてこのレコードこそが「恋はみずいろ」そのものなのです。
「どぅどぅらむぅれどぅ」とはフランス語で
Doux, doux l’amour est doux
―L'amour est bleuより
と記述します。こちらの意味は「甘い甘い 恋は甘い」という意味で、韻を踏みながら繰り返し楽曲で出てくるフレーズとなります。
凛世はこのフレーズを頭の中で繰り返します。
また、凛世の中でこの楽曲を流すレコードに対して
つややかで……
黒い……
音の出る……
盤……貴方様が……
お喜びに……なるならば……
(中略)まわる……まわれ……鳴れ………
ー【水色感情】杜野凛世「A2.恋は何色」
という風に心の中で思い、レコードの音に喜ぶPを見て心臓を鳴らします。つややかで黒いというのは、どこか凛世のイメージである黒髪を思い起こさせて、ここでレコードに針を落とし音が流れ出した時に「鳴りました」とフェスでアピールをするときと同じ音、言い方にすることからも、「凛世自身がアイドルである自分とレコードをどこかで重ねている」ような描写となっています
それを踏まえた上でこのコミュで最も重要な一文は以下の一文です
Pは「なんて歌っているのかわからない」歌に対して上記のセリフを言うわけです。
ここで前回のコミュを思い出してほしいのですが、凛世自身は「彼が私のことを知らない」ことにある種の不安を感じています。
その中でPは「わからないけど、わかるまでレコードを聴こう」というわけです。
つまり、「レコード(=)凛世のことはまだわからないけれど、それでもわかるまであなたと一緒に聴き続ける(=)一緒にいる」という意味合いのコミュとなり、その中で凛世は「甘い甘い恋は甘い」と繰り返します。
凛世自身は、「この歌のタイトル」を言った時に「意味は知らない」と心中で言っているしおそらく分かっていないにも関わらず、「その歌の本質」を歌い続けているというのが、凛世自身の秘めたる感情との重なりを生み出して非常にエモーショナルな一幕となっているのです。
◆B1.マドリガル(R.Morino)
ここからはB面ということで雰囲気が変わります
「マドリガル」というのは「中世イタリアで栄えた世俗声楽曲」のことです。世俗的ということでいわゆる恋歌など庶民の日常的な様子を歌にしたものが多かったジャンルです。しかしながら、それが一度それが途絶えた後、16世紀に非常に実験的なジャンルとして復活して不協和音や半階音を取り入れながら混声でそれぞれのパートが流れて歌っていくような形式のものを指すようにもなりました。各々のパートが調和をあまり気にせず飛び出してくるのが面白い構成ですね
マドリガルの詳しい解説はこちら
こちらはマドリガルの楽曲のひとつ
日本ではアイドルで言うと南野陽子が『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』の主題歌として『風のマドリガル』という楽曲を歌っている。この曲でのマドリガルの意味は「短い詩の恋歌」となっていたりします。これもまた恋の歌だったり。
このコミュではPとカラオケボックスに行き、様々な物事がかわるがわる混声の混ざりあいのように凛世に押し寄せてきます。
そして、凛世にとってはドキドキのシチュエーションとなっていくわけです。
このコミュに関してはひたすら振り回されて、あわあわとする様子をみながら「凛世かわいいよ凛世」となるのが主題のコミュで、どちらかというとコミカルな内容となっています。
ただ、その中でもPは割と無自覚に距離感近かったりしており、あまり凛世と二人っきりということを意識しません。こういったところにも、凛世の気持ちというものを分かっていないPの感じが出ています……いや正しいんだけどね……
この時点で、凛世が割と恋に対してかなり自覚的になり、こういったシチュエーションが「ドキドキするものなのだ」というのがわかっているという認識のレベルがわかる意味でも貴重なコミュです
◆B2.人の気も知らないで(inst)
さて、ついにラストのコミュとなります
『人の気も知らないで』というのは有名なシャンソンの曲名です。
1931年に映画『ソラ(Sola)』で主演であったダミアが歌った挿入歌です。
原題は『Tu ne sais pas aimer』となります
フランスの生まれの彼女は多くの謎に包まれていますが「シャンソンの悲劇女優」と呼ばれ、アンニュイで憂いを帯びた楽曲が多い歌手です。
また、発禁となった一部界隈で有名な「暗い日曜日」を歌ったことでも知られます。
この歌は年上の女性が年下の青年に「あなたは愛することを知らない」と言い、彼がどうせ愛することを知らず自分の元を去っていくだろう、だから最後にはアデューと別れを告げる、という内容になっています。
日本でも1938年渋谷のり子さんが歌い、日本コロムビアからレコードが出ていたりします。
このコミュはInstとなっている通り、今まで凛世視点で描かれていたコミュがP側から見るような描き方をしています。
そして、「私を知らない彼」だったPが気づきを得る瞬間のコミュとなります。
それは「彼の中で凛世の思いに対する気づきを感じる」コミュでもあるのです。
コミュの内容としては、コミュの冒頭で事務所に蝶が迷い込み、それを外に逃がす、というそれだけのシーンです。
しかし、このコミュ自体は暗喩の嵐でその感情の流れを紡いでいきます。さらにこのコミュはA面の終わりの曲である「恋は何色?」と対をなすようにできています。
このコミュでも選択肢は以下の通り
「―窓から放そうか」を選ぶと、凛世が迷いながら窓から蝶を放し、窓を閉めずじっとその蝶の行方を追います。「窓を閉めないと迷ってしまう」というPに対して、凛世は「きっと、迷いたい時もあるのでしょう」とつぶやくように言います。
そして、Pは「それでも帰してあげなきゃ」と道を定めるように言い、凛世はすこし悲しそうな表情でうなづき、Pの耳には「恋はみずいろ」が流れ続けるという内容です。
ここでお気づきの方もいるかと思いますが、このコミュで迷い込んだ青い蝶は凛世の暗喩となっています。つまりこのコミュは「蝶(=)凛世が恋に迷ったとしても、でも帰らなきゃとPが諭す」という意味になります。
そして、重要なのはここでPの耳から「恋はみずいろ」が離れなくなっている点です
つまり、彼は無自覚に凛世と接してきた中で、彼女の少し悲しそうな表情がフラッシュバックして「恋は何色?」の時の表情と重なるわけです。彼は知らずに凛世を諭して彼女の恋心を見ていなかったのに「その裏にある何かに気づき始める」というシーンでも
あります。
他の選択肢も見ていきましょう。
「―なんて蝶かな?」では、「恋は何色?」で流れていた曲を思い出し、この蝶をミズイロアゲハと名付けます。そしてその名を凛世が美しいといい、その凛世を見たあと、Pの耳にはまた『恋はみずいろ』が流れ始めるのです。
ここで前の解釈を見るのであれば「凛世が美しいと笑顔になったところで『恋はみずいろ』が流れ始める」つまり、「恋の音」となり、気づきのひとつのきっかけとなる選択肢になっています。
そして、このコミュ自体のテーマとなるのが「―驚いているかな、この蝶」です。凛世はこの中で「蝶は月を頼りに飛ぶ。凛世も同じである」と言います。
そしてそれに対してPはこのようなセリフを返します
ここで、Pと凛世の立場が逆転するようになります。
つまり、
「彼女を知らないP」
「Pを知っている凛世」
の差がなくなり、彼女が自分を追いかけて自分を見せていたものが反転するのです。
このセリフこそが「彼女を知らないP」が変わっていくきっかけのセリフです。
つまり彼女が不安に思っていた「彼が自分を知らないこと」がここで差がなくなり、P自身が凛世を追いかける立場になるのです
◆R&P
そして、Trueエンドとなります。
こちらは楽曲自体はありません。ここでいうR&Pは単純な見方で言えば「凛世」と「プロデューサー」のことでしょう。
しかし、前のコミュでPの中で気づきがあり「立場が逆となった」と話ました。
つまり、このタイトルの意味というのは『逆になる』ということ、すなわちレコードを「Reverse」してもう一度「Play」するという意味にも取れます。
それはコミュ内でも示されています
Pが今度は「知らないこと」を自覚し不安となり、凛世によって導かれていく
知らないということを知り、凛世を追いかけていく立場になる
そして、そんなプロデューサーに対して、凛世がまた知らなかった新しい側面を見せより輝きを見せていくのです。
◆終わりに
このカードのコミュは「知る」ということと「恋」を中心に、立場の変化と、それにまつわる心情を音楽に合わせて描いていくという非常にハイコンテクストな作りとなっていました
レコードのように踊り歌う凛世にはおそらくまだまだ見えない面があるでしょう。
私たちPは今後それらを多く知っていかなければならないという最良のコミュではなかったかと思います。
この解説ですこしでもアイドルのコミュに興味が惹かれて、「知って」いただければ幸いです
ここまで長い文章を読んでいただきありがとうございました!
(こんな長くなる予定ではなかった……)
それではまた。
水嶋咲は越えられる ~たんあいがたり~
皆さんこんばんは。
水嶋咲のトレンチことkatariyaです。
◆はじめに
この記事は
やきゅさん主催の「担当のここが好き!」を語る企画、「たんあいがたり-natsu-」の七日目の記事となります
昨日は「いぬぽん」さんの「唯という女の子について ~たんあいがたり~」でした
大槻唯って精神の在り方がいいですよね。
彼女の明るさの強さは天性のものであって、何物にも染まらず自分らしさを自然に歩んでいるのが良いですね。魂の形が強い。
◆魂の形
さて、魂の形というのは人それぞれで、どうありたいかという本人の意志の結果です。
しかしながら、この社会というものは個人の意志を時に「常識」や「当たり前」という言葉によって抑えてしまいます。それは「正しさ」でもあるのですが、ある意味では魂の否応ない変質となります。
魂の形というのは、そういった社会との衝突から何を貫くべきなのか。自分が曲げられないことを獲得して決定していく過程の結果とも言えます。
アイドルというものはこの魂の形を目指していく過程であり、その姿を見ることがファンである人々にとっての希望となる瞬間でもあります。
私のSideMの担当である水嶋咲は、魂の形を「カワイイ」ことと定めました。
そのアイデンティティはそうであることを目指す生き方でした。
しかしながら、その道は決して平坦なものではありませんでした。
水嶋咲自身は、まだ18才で大人と子どもの狭間の人間です。
大人ではないので、その願いを諦めることはありませんでした。
しかし、それと同時に子どもでもなく、その願いがもたらす世間や社会の目線というものも知っていました。
故に、水嶋咲は「水嶋咲」であることを世間から隠すように生きてきました。
学校では「普通の性別に沿った生き方」として男子の制服を着て過ごし、放課後だけカワイくなれる。
世間に認められるものではないことも自覚しながら、それでも自分である瞬間を求めていました。
「願い」というのは時に残酷で自分自身を傷つけ、また周囲の人間を傷つけてしまうこともあります。
それによって不可逆な変化をもたらしてしまうこともままあります。
しかし、その可能性を考えても、何かを失っても、その「願い」を求める覚悟をする瞬間があります。
天才であれば、あるいは子どもであれば、その覚悟をいともたやすく行うでしょう。大人であれば捨てるものを天秤にかけてそれでもと冷静に選択するでしょう。
水嶋咲は大人でも子どもでもなく、天才でもありませんでした。
水嶋咲は自分が受け入れられないかもしてないことを、社会から傷つけられてしまうかもしれないことも知っていました。
それと同時に、どちらかを捨てることも出来ずにいました.
でも、それこそが私が水嶋咲というアイドルを選んだ部分でもあります。
◆ボーダーを越える
アイドルが最も輝く時はどこなのか?
それは、自分一人では分不相応な願いを自覚的しながら、それでも迷って足掻いてもがきながら、等身大の自分で手を伸ばす覚悟をした時です。
そして、その迷いの前提が強ければ強いほど、アイドルは輝いていきます。
何故ならば迷い決断するということは、2つの異なる視点を感じて知ることであり、
2つの異なる立場の人々を知り、その人たちの思いを背負うことだからです。
故に、アイドルというのは徒人でありながらあらゆるボーダーの上に立ち境界線を飛び越えて新しい世界を見せてくれる人である、というのが私の考え方でした。
水嶋咲は性別でも、年齢でも、虚と実という意味でも境界線上の人です。そのことについてとても自覚的です。それ故に迷ったり苦しんだりもします。
でも、だからこそ、私は水嶋咲が世界を変えていく姿が見たいのです。
水嶋咲という境界線の祈りと覚悟が、世界を切り拓いて、飛び越えていく姿はきっと新しい景色を見せてくれるからと感じたです。
私はそれが見たかったのです。
だからこそ私は水嶋咲を担当しました
◆5周年を迎えて
SideMは今年で5周年になります。
水嶋咲は独り求めていた「あたしらしさ」は、
卯月巻緒と出会い、CafeParadeという居場所を見つけ、
そしてアイドルとなることで多くの人々と出会いながら認められていきながら、
作中の多くの場所で世界の見方を変えてきました。
そして、また現実においても私は水嶋咲を通して人と出会い 、
多くの新しい景色を見ることが出来ました。
願わくば、これからも水嶋咲と迷いながら一緒に境界線の向こう側を見に行きたいと思います。
◆次回予告
というわけで、今回はここまで。
次回はa54さんで「双葉杏」となります。
双葉杏の人生の立ち方は最高だと思います。
ではでは~。